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Rêver / Mylène Farmer 解説(1)



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1.「壁」と「彼」について

 <2番Aメロ前半の歌詞原文と筆者訳>
 À quoi bon abattre des murs
 Pour y dresser des sépultures
 À force d'ignorer la tolérance
 Nous ne marcherons plus ensemble
 何になるのです? 壁を崩壊させても
 そこに新しい墓地を 築くだけなら
 許し合い認め合う事を 忘れたままで
 私たちはもう 一緒には行きません

 <サビ前半の歌詞原文と筆者訳>
 J'ai rêvé qu'on pouvait s'aimer
 Au souffle du vent
 S'élevait l'âme, l'humanité
 Son manteau de sang
 私は夢見ていました 人は皆 愛し合えると
 ほんの少し風が 吹きさえすれば
 高められるはずでした 魂は、人間性は
 なのに彼のマントは 血まみれです

1992 年のシングル Que mon coeur lâche 以降、ミレーヌファルメールは現実の社会問題に題材を取った曲を、しばしば発表するようになります。

この歌もそのひとつ。モチーフになったのは、3rd アルバム L'autre リリースの翌年に始まり、本作を収録した 4th アルバム Anamorphosée リリースの、まさにその年に終結した、20万人の死者、200万人の難民・避難民が発生したボスニア・ヘルツェゴビナ紛争 (1992-1995) です。

2番に登場する À quoi bon abattre des murs / Pour y dresser des sépultures(直訳:そこに幾つも墓を建てるために、壁を壊して何になるのか?) の「壁」は、もちろん「ベルリンの壁」ですね。1989 年のこの壁の崩壊は、東西の冷戦終結の象徴でした。


(ベルリンの壁の崩壊)

ところがそれだけでは、この歌の「私」が夢見ていたような、「人は皆 愛し合える」世界は訪れなかったのです。皮肉にも、それまで旧体制によって抑え込まれていた民族紛争が旧社会主義諸国で深刻化し、新たな紛争が始まってしまったのですから…。

特にその傾向が顕著だったのは、ユーゴ内戦、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争、そして後のコソボ紛争の舞台となった、旧ユーゴスラビア連邦の国々でした。元々、文化的経済的背景の異なる複数の民族で構成されていたこの連邦は、旧体制の崩壊後、"民族浄化運動" と呼ばれる、異民族を根絶しようとする動きが盛んになったのです。

歌詞に何度も登場する「彼」は、こうした旧社会主義国家を擬人化したものなのでしょう。son manteau de sang (彼の血のマント)というフレーズがあるところを見ると、この「彼」は、社会主義革命の象徴的人物だったレーニンを指しているのかも知れません。かつて東欧諸国には、社会主義革命の象徴としてレーニン像が置かれており、それらの多くが、マントを身に着けていたからです。


(マントを着けたレーニン像)

もちろんここは、特定の人物を当てはめず、「国家」そのものを「彼」と考える事も可能です。その場合、「血のマント」とは「たくさんの人々の血が流された大地」という解釈になるでしょうか?何しろ「国家」を意味するフランス語は、pays(地域としての国家) にしろ、état(制度としての国家) にしろ 、男性名詞ですからね。

えっ?女性名詞の nation も「国家」を意味するフランス語じゃないのかって?

はい、それはもちろんそうなんですが、この歌の場合は絶対に「彼女」ではマズイんです。nation は「民族国家」の意味合いが強いので、"民族" 浄化運動の火に油を注ぐことになっちゃいますからね…。(^^;


(サラエボ 民族浄化運動の犠牲者の墓)


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Agnus dei / Mylène Farmer 解説(3)



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3.「私は理性(あたま)失う」について

続いて、各パラグラフの後半3行を見てみましょう。こちらは、生贄として屠られる「神の小羊」を目の当たりにした主人公の心理描写なんですが、面白いのは、それらがことごとく屠殺を連想させる慣用句で構成されている点です。

 <1番後半の歌詞原文と筆者訳>
 Agnus dei
 Te voir en chair
 J'en perds la tête
 神の小羊
 生身の貴方を見て
 私は理性 (あたま) 失くす

J'en perds la tête は、「私は逆上する」の意味ですが、直訳は「私は頭を失う」。ヒロインは生贄の小羊同様、頭部切断されるわけです(笑)。

 <2番後半の歌詞原文と筆者訳>
 Te voir ici
 Quelle hérésie
 Les bras m'en tombent
 ここで貴方に
 遭うとは何と異端
 私の肩が落ちる

Les bras m'en tombent の意味は「私はショックで脱力する」ですが、文字通りに解釈すると「私から両腕が落ちる」。これまた解体される小羊と同様ですね。

 <3番後半の歌詞原文と筆者訳>
 Excommuniée
 J'ai les pieds et
 Les poings liés
 破門にされて
 私の両手足は
 何者かに縛られ

J'ai les pieds et /Les poings liés は、「私は身動きが取れない状態にある」ですが、直訳「私は両足と両の拳を縛られている」。かつて欧米では(そして発展途上国の多くでは現在も)、屠殺直前の家畜は暴れないよう四肢をひとまとめに縛るのが一般的でした。

 <4番後半の歌詞原文と筆者訳>
 Agnus dei
 Moi l'impie
 Je suis saignée aux quatres veines
 神の小羊
 冒涜者の私は
 多くの血を流した

Je suis saignée aux quatres veines は、「私は多くの犠牲を払った」という意味になるんですが、元々の意味は「私は4本の静脈から血を流した」。1番に続いて、またもや流血シーンです(笑)。

ウーン、ここまで徹底されると、うがった見方をしたくなっちゃいますよね。もしかするとヒロインは、生贄にされる小羊を見ながら、「私もまた、この小羊と同じだ!」と思っているのかも知れません。
 
だとすれば、これは実にトンデモない事ですよ。普通の小羊なら、単なる "感情移入しすぎ" で済ませられますけど、何たって「神の小羊」は「イエス・キリスト」の別名なんですもん。

要するに彼女、「私はキリストだ」って言ってるのも同然なんです。言ってみれば、父と子と聖霊と私の、三位ならぬ四位一体説ですね。そりゃ確かに、教会から「冒涜者」として「破門にされて」当然でありましょう(笑)。

 <エンディングの歌詞原文と筆者訳>
 Je m'éloigne de tout
 Je suis loin de vous...
 私は遠ざかる すべての物から
 私が遠くなる 貴方たちから…

かくして、「私は遠ざかる すべての物から/私が遠くなる 貴方たち(=カトリック教会)から…」となるわけです。アーメン…。

Agnus dei / Mylène Farmer 解説(2)



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2.「放血」と「終油」について

さて、この歌詞の各パラグラフは2つに分かれており、De mutilation (切断から) で始まる前半の2行は、生贄にされる「神の小羊」の描写となっています。

 <1番前半の歌詞原文と筆者訳>
 De mutilation
 En soustraction
 切断から
 放血まで

ここに登場する soustraction は、本来「抜き取り」の意味なのですが、ある方から訳出中に「血抜き」の事ではないかと指摘いただいた単語です。なるほど、私の手持ちの辞書には載っていなかったのですが、そう考えると歌詞の内容とピッタリ符合しますね。

試しに soustraction de sang (直訳:血の抜き取り) をキーワードに、Yahoo 検索してみたところ、これを訳していた当時 (2000年頃)、6 件のページがヒットしました。用例は少ないですが、確かにこの単語は「血抜き」を意味する際にも使われるようです(なお、2014 年の現在は 1,860 件のページがヒットしています)。

ただし、当時ヒットしたページは (そして現在も、リストアップされたページの最初の 10 数件を見る限り)、すべて医学関連のもので、残念ながら食肉加工に関するページは確認できませんでした。

そこで次に調べてみたのが、ユダヤ教の食の戒律「コーシェル」。旧約聖書の「レビ記」に基づくこの戒律は、パブテズマのヨハネの時代から現在に至るまで、厳格に守られているのです。

それによると、食用にする家畜は鋭い刃物で頸動脈を一息に「切断」し、屠殺後は肉を、完全に「血抜き」しなければならないとの事でした。

やはりこの場合の soustraction は、「血抜き」と考えて良いでしょうね。拙訳では、屠殺関連の日本語サイトを幾つか当たり、より専門用語的で使用頻度の高かった「放血」としています。

 <2番前半の歌詞原文と筆者訳>
 De mutilation
 En convulsion
 切断から
 痙攣(けいれん)まで

 <3番前半の歌詞原文と筆者訳>
 De mutilation
 En génuflexion
 切断から
 跪拝(きはい)まで

さて、頚動脈の「切断から放血」を経て、「痙攣」を始めた「神の小羊」の、次なる運命は génuflexion (跪拝)。これはキリスト教用語で、祈りのために右ひざを地面に付けてひざまずき、胸の前で両手を合わせるしぐさを指します。


(跪拝)

ただしこの歌の場合は、息絶えた小羊がうずくまった姿を、祈りのポーズに見立てているのかも知れません。悪趣味な見立てですが…(笑)。

 <4番前半の歌詞原文と筆者訳>
 De mutilation
 En extrême onction
 切断から
 終油まで

こうして「神の小羊」は、とうとう絶命するわけですが、それを暗示するのが、これまたキリスト教用語の extrême onction (終油)。

「終油」とは、臨終の際に行なわれる秘蹟(カトリックの信徒が行わなければならない一連の宗教的儀式)で、信徒の手、足、額などに、司祭が祈りの言葉を唱えながら聖油を塗る事を指します。これにより、死者はすべての罪を許され、確実に天国に行けるとされていました。

なお、この終油は、現在では病気の信徒の健康回復を祈る目的でも行なわれるようになり、名称も「病者の塗油」に変わっているそうです。

参考資料:
出版社ミルトス「ユダヤ教 ━ ユダヤ教の食事規定『コーシェル』」
ローマ・ミサ典礼書の総則(暫定版) - カトリック中央協議会
トロント大司教区におけるミサの祭壇奉仕と関連事項(英語)
八木谷涼子「知って役立つキリスト教大研究」新潮OH!文庫

Agnus dei / Mylène Farmer 解説(1)



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1.「神の小羊」について

 <1~2番の歌詞原文と筆者訳>
 De mutilation
 En soustraction
 Agnus dei
 Te voir en chair
 J'en perds la tête
 切断から
 放血まで
 神の小羊
 生身の貴方を見て
 私は理性(あたま)失くす

 De mutilation
 En convulsion
 Te voir ici
 Quelle hérésie
 Les bras m'en tombent
 切断から
 痙攣(けいれん)まで
 ここで貴方に
 遭うとは何と異端
 私の肩が落ちる


(神の小羊のステンドグラス)

この歌の舞台は、おそらくカトリックの教会。主人公はミサに出席しているのです。

ミサというと、私のような非キリスト教徒は、ついついクリスマスや結婚式や黒ミサなど、特別な場合を想像してしまうのですけど(いや、最後のは違うか…)、これは信徒には不可欠の儀式で、フランスで信者の多いカトリックの場合、基本的に毎日行なわれているのだそうです。

ミサの目的は、キリストの受難と復活を記念する事。そのため、信者には「聖体拝領」といって、キリストの身体を象徴するパンが配られます。いわゆる「最後の晩餐」の場面(新約聖書「ルカによる福音書」22章19~20節、「コリント人への第一の手紙」11章23~26節 etc.)を再現しているのですね。

この聖体拝領用のパンは、現在ではホスチアというウェファス状のものを使いますが、大昔は普通のパンをミサの参加者の人数分に切り分けていました。


(ホスチア)

そのため、ミサが大規模になると準備に時間がかかり、せっかくの宗教的な雰囲気が間延びしてしまう事もあったのだそうです。

そこで一計を案じたのが、7世紀末の第84代ローマ法王セルギウス一世(法王在位:687-701)。彼は聖体拝領の前に聖歌を歌わせ、厳かなムードをキープしつつ時間を稼ぐ事を考えました。


(聖セルギウス一世)

実は、その聖歌こそが、「アニュス・デイ(別名:平和の賛歌)」なのです。

聖歌「アニュス・デイ」の歌詞は、パブテズマのヨハネが初めてイエスを見た時に発した言葉、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(「ヨハネによる福音書」1章29節)から取られました。

ここで言う「神の小羊」とは、ユダヤ教の過ぎ越しの祭りで生贄に捧げられる小羊の事。ヨハネはこの言葉により、イエスが神の生贄となって人々を救う事を預言したのだそうです。

ではここで、この聖歌の最初の部分を、ラテン語の原文と典礼聖歌編集部による日本語訳で紹介してみましょう。

 Agnus Dei, qui tollis peccata mundi:
 Miserere nobis.
 神の小羊、世の罪を除きたもう主よ、
 われらをあわれみ給え。

もうおわかりですね。ミレーヌファルメールの歌の間奏で妖しげな呪文(?)のごとく唱えられていたのは、聖歌「アニュス・デイ」の歌詞だったのです。

つまり主人公は、事もあろうに聖体拝領の直前、キリストの身体の象徴たるホスチアではなく「生身の」神の小羊が生贄にされる光景を、(幻覚なのか、はたまた想像力過多なのか…)目撃しちゃったわけですね。

聖体拝領って、言ってみればミサのクライマックスですよ。その直前に血まみれの小羊がバラバラに切り裂かれる阿鼻叫喚地獄絵図が見えちゃったってんですから、そりゃ確かに「異端」ですわなぁ…(笑)。

参考資料:音楽集団アンサンブル・ヴォーチェ「ミサ/レクイエムの式次第 平和の賛歌 (Agnus dei)」

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