Méfie-toi / Mylène Farmer 解説(3)



訳詞 + 原文を新しいウィンドウで開く

3.「I.A.O.」について

 <1番Aメロの歌詞原文と筆者訳(抜粋)>
 Il m'a fallu l'impasse
 Donner ma langue au chat
 Pour contrer l'existence
 I.A.O/I.A.O
 私は停止が 必要だった
 負けを見とめる 必要があった
 この存在に 立ち向かうために
 I.A.O/I.A.O

この曲全体を通じて繰り返される I.A.O. というフレーズも、これまたタロットに関する用語でした。

タロット占いの正式な作法では、占いの前に必ず召喚符と呼ばれる文句を唱えるのですが、その最初のフレーズが「神聖なる I.A.O.(イー・アー・オー) の御名において」なのですよ。

この I.A.O. は古代エジプトの神、イシス、アポフィス、オシリスの頭文字を取ったもの。タロット占いは西洋魔術学の流れを汲んでいて、この魔術学には古代エジプトの神々も取り込まれているのです。

エジプト神話では、イシスは豊穣の女神で魔術の達人。オシリスはイシスの兄で夫。元々はエジプト全土を治める神でしたが、弟のセトによって殺され、イシスの奔走で復活して冥界の神になりました。

一方、アポフィスはアペプのギリシャ名。夜を司るヘビの姿をした神ですが、エジプト神話がギリシャに伝わると、オシリスを殺害したセトと同一視されました。

これらの神々は西洋魔術では、それぞれ、

 ・イシス………自然
 ・アポフィス…破壊
 ・オシリス……贖い

を象徴します。つまり、I.A.O. とは「自然の状態が一旦ダメージを受け、元通りにはなれないまでもダメージと折り合いをつけて復活する」という意味になるんですね。

面白いのはミレーヌが、この I.A.O. と仏教思想を重ね合わせている点。この曲の ♪ I.A.O. / I.A.O. の部分に、「合掌」を思わせる振りが付いているのは、ちゃんと理由があったんですよ。

 <2番Aメロの歌詞原文と直訳(抜粋)>
 Mon karma est tenace
 On est selon "Bouddha"
 Héritier de nos actes
 I.A.O/I.A.O
 私のカルマは辛抱強い
 私たちは「仏陀」に従っている
 私たちの行動を継承する事
 I.A.O/I.A.O

「私たちの行動を継承する事」とは、いわゆる「因果応報」の事。誰かがある行動を取れば、その結果は必ず、その人自身や、その子孫に返って来る。これが「業(カルマ)」ですね。

さて、ここでもう一度、この歌が何の歌だったかを思い出してください。ね? 「I.A.O.」とも「因果応報」とも、ぴったり符合しますでしょ?(笑)

解説の先頭に戻る
スポンサーサイト

Méfie-toi / Mylène Farmer 解説(2)



訳詞 + 原文を新しいウィンドウで開く

2.「能天使(パワー)」と「力(フォース)」について

 <サビ前半の歌詞原文と筆者訳>
 Méfie-toi des Puissances
 Méfie-toi de l'aisance
 Au jeu du corps à corps
 L'esprit est bien plus fort
 Méfie-toi des Puissances
 Des vierges sans défense
 Leurs forces sont subtiles
 La force est féminine
 気をつけて あなたも 能天使(パワー)には
 気をつけて あなたも 安直な
 身体から 身体の 遊びには
 精神なら もっと 強いはず
 気をつけて あなたも 能天使(パワー)には
 自らを 守れぬ 処女たちの
 彼女らの 力は 微妙なの
 力(フォース)とは 女性が 化身だから

この歌のサビには「パワー」と「フォース」という、一見よく似た意味の単語が並んで登場するのですが、意味はまったく異なります。

L'amour naissant にも登場する、大文字で始まる Puissances は、キリスト教用語で「能天使」。天使と悪魔の戦いの、最前線で戦う天使の事です。

英語名の「パワー(ズ)」が示す通り、彼らはとても強力な軍団なのですが、最前線ゆえに悪魔に誘惑されやすいという困った一面も持っています。

そんな事から、この歌や L'amour naissant では、「一時の激情」という、「イナモラメント」の一面を示す言葉として使われているようですね。これがミレーヌのオリジナル発想なのか、フランチェスコ・アルベローニからの引用なのかは不明ですが…。

これに対して force(力) は、本能や欲望をコントロールする精神力の事。こちらは由来がはっきりしていて、タロット占いからの引用でした。


(タロットカードの「力」。ウェイト版による)

タロットカードの「力」には普通、「ライオンを従えた処女」が描かれ、「ライオン」は自然の状態 (本能や欲望など)、「処女」はそれを抑制する意志の力を象徴しているのです。1番のAメロの歌詞に patience(忍耐) や tenace(辛抱強い) が登場するのは、そのためですね。

 <1番Aメロの一部(歌詞原文と筆者訳)>
 Mon Q.I. est tenace
 Ma patience : un état
 私のIQは 辛抱強く
 耐え続けてる ある状態に

また、La force est féminine(直訳:力は女性) というフレーズは、フランス語の force が女性名詞である事とタロットカードの「力」が女性の姿に描かれている事に引っかけ、父王の死後すぐに再婚しちゃった母親にあきれるハムレットばりに、「弱き者よ、汝の名は女」と言っているのではないでしょうか?

ちなみに、この「力」を含む、大きな絵の描かれた22枚のカードを、タロットでは大アルカナと呼びます。この大アルカナには 1 から 21 までの通し番号が振られ(「愚者」のカードのみ番号なし)、「何番目の大アルカナ」という言い方をするのです。

 <サビ後半の歌詞原文と筆者訳>
 Et quand l'esprit, frappe
 C'est un fouet qui, claque
 Méfie-toi quand même
 C'est la onzième, lame
 Majeur est, l'arcane
 Vierge Iconoclaste
 Dieu, que l'icône est classe: 5,4,3,2
 精神は、打つわ
 鞭と化し、ピシリと
 気をつけて あなた それでも
 11の、カード
 大アルカナでも
 処女ならば 聖像破壊者(イコノクラスト)
 おお神よ、もう聖像は終わり(ク・リコネ・クラス):5,4,3,2

歌詞の Méfie-toi quand même / C'est l'onzième lâme / Majeur est l'arcane は、それを踏まえた表現。直訳は、「それでも気をつけなさい。/それが11番目の札であろうと/アルカナが大きかろうと」です。

要は「11番目の大アルカナが切り札でも、気をつけなきゃだめ」って事ですね。では、11番目の大アルカナが何かというと…。

実はタロットの種類によって異なるのです。現在一般に流布しているタロットカードには、ウエイト版とマルセイユ版の2種類があり、両者は 8 番目の大アルカナと 11 番目の大アルカナが逆転しているのですよ。

フランスでは歴史の古いマルセイユ版の方がポピュラーだそうなので、ここではマルセイユ版の 11 番目の大アルカナという解釈を取りましょう。正解は(もうおわかりでしょうけど、)「力」でした。


(タロットカードの「力」。マルセイユ版による)

※なお、ウエイト版では「正義」が 11 番目です。


(タロットカードの「正義」。ウェイト版による)

総合すると、サビのフレーズでヒロインが言いたかったのは、「生娘よ、己を過信するなかれ。欲望をコントロールする術を心得ていると思っていても、あなたの精神力は脆いのだから」。

彼女は自分の経験から、「年頃の娘は、早く捨てたがってる」と考えているのです。でなければどうして、Verge iconoclaste(直訳:聖像破壊の処女)なんて言葉が出てきましょうや?

ちなみに icône (聖画像)には聖母子像が付き物ですから、ここで言う「処女」には、聖母マリアのイメージが投影されていると見て間違いありません。「ヴァージニティは神聖よ」なんて、ミレーヌの言葉とは思えない気がしますけど…(笑)。

かくして「自らを 守れぬ 処女たち」は、que l'icône est classe(その聖像は "クラス" だ!) という状態になるのです。

この場合の classe は「終わり」を表す口語表現。そう考えないと、その直後の「5、4、3、2…」というカウントダウンが意味不明になってしまいます。ピンクレディー風に言うと、「今日もまた誰か、乙女のピンチ」ってとこですね(笑)。

解説の続きへ 解説の先頭に戻る

Méfie-toi / Mylène Farmer 解説(1)



訳詞 + 原文を新しいウィンドウで開く

1.「ある状態」と「恥辱の蛇」について

 <1番Aメロの歌詞原文と筆者訳>
 Il m'a fallu l'impasse
 Donner ma langue au chat
 Pour contrer l'existence
 I.A.O/I.A.O
 Mon Q.I. est tenace
 Ma patience : un état
 Dompter les apparences
 I.A.O/I.A.O
 私は停止が 必要だった
 負けを見とめる 必要があった
 この存在に 立ち向かうために
 I.A.O/I.A.O
 私のIQは 辛抱強く
 耐え続けてる ある状態に
 うわべはそれと 悟られぬように
 I.A.O/I.A.O

下世話に言うと、これ、「オボコ娘が、複数の殿方とややこしい事になって、『あら出来ちゃった、どうしましょ?』」っていう歌なのです。

作詞家ミレーヌ・ファルメールは、あからさまに「出来ちゃった」と書いてはいませんけど、l'impasse (停滞) とか Dompter les apparences (いくつかの外見を抑える) とか、意味深な表現があちこちに出て来るんですもん。どうしたって、そう解釈したくなりますよ。

un état (ある状態) も、un état intéressant (ある興味深い状態 = 「妊娠」の婉曲表現) を連想させますしね。だからこそ、「取るべき道は 何通りもある」って事になるわけです。

 <2番Bメロの歌詞原文と筆者訳>
 Les chemins sont multiples
 Tout est question de choix
 Et aux paroles mortifères
 Mieux qu'une arithmétique
 L'esprit fort est le roi
 Il règne ainsi sur la matière
 I.A.O/I.A.O
 取るべき道は 何通りもある
 すべては 選択の問題
 それなら 致命的な言葉には
 計算よりも ましな何かを
 精神の強さは 王様
 こうして 物質に君臨する
 I.A.O/I.A.O

もちろん、「すべては選択の問題」と言いつつ、ヒロインが選ぼうとしているのは "中絶"。「致命的な言葉 (=妊娠の宣告) には/計算 (=産み月まであと何週間…) よりもましな何かを」ってわけですね(笑)。

 <1番Bメロの歌詞原文と筆者訳>
 Les chemins sont multiples
 Tout est question de choix
 Au diable les proses brutales
 Les colères homériques
 Tout ça n'importe quoi
 Il existe arme redoutable
 I.A.O/I.A.O
 取るべき道は 何通りもある
 すべては 選択の問題
「悪魔には 手厳しく抗議せよ」
 ホメロスめいた 激しい怒り
 すべては どうだっていい事
 恐ろしい 武器が存在するなら
 I.A.O/I.A.O

当然、この行為はカトリックではご法度ですから、ヒロインは教会から「悪魔 (=反キリスト者)」呼ばわり。それゆえ彼女は、古代ギリシアの叙事詩人ホメロスが「オデッセイア」や「イリアッド」で描いた異教の神々のごとく、激しい怒りをあらわにするのです。

「キリストの教えに背くなんて、そんなのどうだっていいでしょ!あたしはね、今すっごくせっぱつまってんの。自分の中に爆弾抱えこんでんだから!」って感じでしょうか?

(それにしても可哀相なのは、お腹の赤ちゃん。「存在」とか「恐ろしい武器」とか「物質」とか、えらい言われようなんだから…。もし口が利けたら絶対に Maman a tort! [ママンは間違ってる!] って言ってるはず…涙)。

 <サビの歌詞原文と筆者訳>
 Méfie-toi des Puissances
 Méfie-toi de l'aisance
 Au jeu du corps à corps
 L'esprit est bien plus fort
 Méfie-toi des Puissances
 Des vierges sans défense
 Leurs forces sont subtiles
 気をつけて あなたも 能天使(パワー)には
 気をつけて あなたも 安直な
 身体から 身体の 遊びには
 精神なら もっと 強いはず
 気をつけて あなたも 能天使(パワー)には
 自らを 守れぬ 処女たちの
 彼女らの 力は 微妙なの

で、こうした一連の経験から、ヒロインは自分の後輩たちに、ピンク・レディーの「S.O.S.」よろしく、「気をつけなさい 年頃になったなら つつしみなさい」と訴えているわけです。

何たって歌っているのが、あの Libertine で世に出たお方ですから、ミーちゃんケイちゃんの数万倍は説得力がありますな。

もっとも、使っている言葉が婉曲的すぎて、オバカな若い娘にはチンプンカンプンかも知れないっていう、根本的な問題があったりするんですが(笑)。

 <2番Aメロ前半の歌詞原文と筆者訳>
 Il m'a fallu l'épreuve
 De : c'est chacun pour soi
 Avaler des couleuvres
 I.A.O/I.A.O
 私は試練が 必要だった
 自分勝手な 行為の果てに
 恥辱の蛇を 呑み込む試練が
 I.A.O/I.A.O

ちなみに、このミレーヌ版「S.O.S.」には、もちろん「男はオオカミなのよ」なんてフレーズは出てきません。その代わり、ヒロインが体験した試練を Avaler des couleuvres と表現しています。

これは「屈辱を耐え忍ぶ」の意味の慣用句なのですが、直訳は「何匹もヘビを呑み込む」…。まぁ、ミレーヌお姐さまってば、ロ・コ・ツ(赤面)。

解説の続きへ

Je te rends ton amour / Mylène Farmer 解説(1)



訳詞 + 原文を新しいウィンドウで開く

1.「ゴーギャン」と「シーレ」について(その1)

 <1番Bメロ後半の歌詞原文と筆者訳>
 Tu voyais l'âme
 Mais j'ai vu ta main
 Choisir Gauguin
 あなたは 魂見てた
 けれども その手は今
 ゴーギャンを 選んでた

 <エンディング後半の歌詞原文と筆者訳>
 Et je reprends mon amour
 Redeviens les contours
 De mon seul maître : Egon Shiele…
 だから 私に愛を返そう
 輪郭に 戻りなさい
 わが唯一の巨匠 エゴン・シーレの線に…


(左:ポール・ゴーギャン[1848-1903] 右:エゴン・シーレ[1890-1918])

歌詞に著明な画家の名前が2つ登場する本作。そのうちエゴン・シーレについて、ミレーヌファルメールは 1991 年に「ル・フィガロ・マガジン Le Figaro Magazine」のインタビューで、次のように語っています。

 J'aime passionnement la peinture d'Egon Shiele.
 J'aurais pu être son modèle.
 Lorsque je me vois dans un miroir, j'ai l'impression d'être une de ces rousses ecorchées.
 Il a tout compris, jusque dans la manière de signer ses toiles.
 エゴン・シーレの絵が大好きです。
 私は彼のモデルになれたでしょう。
 鏡に映る自分の姿を見るたび、あの神経を尖らせた赤い髪の女性の1人になったような気がするのです。
 彼は何もかも把握していました。自分の絵に署名するスタイルに至るまで。
 (筆者訳による)

実際、彼女のビジュアル・イメージは、少なからずこの「赤い髪の女性」(シーレの妹ゲルティ、妻エディット、および元恋人ヴァリ・ノイツェル)の影響を受けていたようですね。


(エゴン・シーレ作品。左:ゲルティ・シーレの肖像 中:膝を折り座る女性 右:死と少女)


(ミレーヌファルメール・ビデオクリップ。左:Tristana 中:Je t'aime mélancolie 右:Regrets)

さらに 1999 年 6 月 8 日にこの曲がアルバム Innamoramento からシングル・カットされた時、ジャケットにはミレーヌが「ル・フィガロ・マガジン」のインタビューで言及していた、シーレの署名を模したタイトル・ロゴが使われていました。


(シングル「Je te rends ton amour」ジャケット)


(左:同シングルのタイトルロゴ 右:エゴン・シーレの署名)

ここまでエゴン・シーレに傾倒していたミレーヌの事ですから、彼の名が「わが唯一の巨匠」として歌詞の中に出て来ても、さほど不思議ではありません。

ところが、ミレーヌはもう一人の画家、ポール・ゴーギャンについては何ひとつ言及していないのです。では、彼の名前が引用されているのは一体どういうわけなのでしょう…?

不思議に思って、彼らの伝記や作品論を当たってみたところ、面白い事がわかりました。ゴーギャンとシーレは、ある面では全く対照的で、別の面では大きな共通点のあるアーチストだったのです。

多分ミレーヌはそこに注目して、「ゴーギャンを選んでた」のではないでしょうか?

解説の続きへ

Je te rends ton amour / Mylène Farmer 解説(2)



訳詞 + 原文を新しいウィンドウで開く

1.「ゴーギャン」と「シーレ」について(その2)

 <1番Bメロ後半の歌詞原文と筆者訳>
 Tu voyais l'âme
 Mais j'ai vu ta main
 Choisir Gauguin
 あなたは 魂見てた
 けれども その手は今
 ゴーギャンを 選んでた

 <2番サビの歌詞原文と筆者訳>
 Et je te rends ton amour
 Au moins pour toujours
 Je te rends ton amour
 Le mien est trop lourd
 だから あなたに愛を返そう
 少なくとも 永久に
 あなたに愛を返そう
 私の愛は 重すぎる

エゴン・シーレとポール・ゴーギャンが最も対照的だったのは、その交友関係でした。シーレはグスタフ・クリムト (1862-1918) と、ゴーギャンはフィンセント・ヴァン・ゴッホ (1853-1890) と、それぞれ交流があったのですが、この2つの友情は、まるで正反対の結末を迎えたのです。

シーレとクリムトが初めて会ったのは、1907 年のウィーン。17 才のシーレはこの年初めてアトリエを構えるのですが、ある日そこへ当時ウィーン画壇の重鎮だった 45 才のクリムトが訪ねてきたのです。何でもクリムトは新しい才能の発掘に力を入れていて、しばしば自分が注目する新人画家を訪問しては激励していたのだとか。シーレも、最初はそうした画家の1人だったんですね。


(左:エゴン・シーレ 右:グスタフ・クリムト)

ところが、年齢もキャリアもまるでかけ離れていたこの2人は妙にウマが合い、その後も親密な交際を続けました。恐らくシーレが 15 才で父を亡くし、少々ファザコン気味だった事も影響しているのでしょう。

ちなみにシーレが妻のエディットと知り合う前に、彼の恋人兼モデルだったヴァリ・ノイツェルは、元々クリムトのモデルだったのをシーレが譲り受けたのだそうです。


(左:シーレ「ヴァリ・ノイツェルの肖像」 右:クリムト「ヴァリの肖像」[現在は焼失])

結局、彼らの友情は 1918 年 2 月 10 日に、クリムトが脳梗塞と肺炎により他界するまで続きます。そして、クリムトの死を看取ったシーレも同年スペイン風邪をこじらせ、10 月 31 日、まるで後を追うかのように亡くなるのでした。


(シーレ「クリムトのデスマスク」)

一方、ゴーギャンとゴッホが知り合ったのは、1886 年のパリ。ともに正規の作画教育を受けていない素人画家として出発したこの2人は、この年、同じ絵画学校に通い始めたのです。彼らはその後も、当時パリの貧乏画家のパトロン的存在だったタンギー爺さんの画材店で、しばしば顔を合わせる間柄でした。


(左:ポール・ゴーギャン 右:フィンセント・ヴァン・ゴッホ[の自画像])

やがて 1888 年に南仏アルルへ移り住んだゴッホは、その地に画家仲間のコミューンを築く事を夢見、最初のメンバーとして、かねてから敬愛していたゴーギャンを招きました。その頃アルルで、ゴーギャンがゴッホを、ゴッホがゴーギャンを、それぞれモデルにして描いた絵が今に残っています。


(左:ゴッホ「赤いベレー帽の男」 右:ゴーギャン「ひまわりを描くゴッホ」)

けれども、お互いの個性が強すぎたのでしょうか?2人の共同生活は、わずか2ヶ月 (10 月 23 日~12 月 23 日) で破綻してしまいます。パリへ戻ろうとするゴーギャンを引き止めようと、ゴッホは文字通りの半狂乱になりました。そして、とうとう発作的に自分の左耳下部を切り落とし、精神病院に収容されたのです。

gogh3.jpg
(ゴッホ「耳を切った自画像」)

ミレーヌは、この2つの交友関係を踏まえて1番Bメロ後半の

 Tu voyais l'âme
 Mais j'ai vu ta main
 Choisir Gauguin
 あなたはかつて、魂を見ていた
 でも私は、あなたの手が
 ゴーギャンを選ぶのを見た(直訳)

の3行を書いたと思われます。つまり、「最初あなたはクリムトで、あなたに見出された私はシーレだった。なのにあなたは今ゴーギャンたる事を選び、私をゴッホとして見捨てようとしている」って事ですね。

さらに「私」に擬せられているシーレが、その神経質な描線で「精神(=魂)」を表現したと評されている事から考えると、先頭の行は「昔、私とあなたは、同じ物(=魂)を見ていた」という意味になるのではないでしょうか?

反対にゴーギャンを愛し過ぎたゴッホの姿を彷彿とさせるのが、2番サビの Le mien est trop lourd(直訳:私のそれ[=愛]は重過ぎる)。

だからこそヒロインは、「最後の手段」として「あなたに愛を返そう」と決意しなければならなかったわけです。さもなかったら、耳なんか切り落としそうでしょ? (笑)

解説の続きへ 解説の先頭に戻る

Je te rends ton amour / Mylène Farmer 解説(3)



訳詞 + 原文を新しいウィンドウで開く

1.「ゴーギャン」と「シーレ」について(3)

 <1番サビ前半の歌詞原文と筆者訳>
 Et je te rends ton amour
 Redeviens les contours
 Je te rends ton amour
 C'est mon dernier recours
 だから あなたに愛を返そう
 輪郭に 戻りなさい
 あなたに愛を返そう
 私の 最後の手段

 <エンディング前半の歌詞原文と筆者訳>
 Je te rends ton amour
 C'est plus flagrant le jour
 Ses colours se sont diluées
 あなたに愛を返そう
 何より 明らかな事
 その日すべての色は モノトーンに変わる

こんな風に交友関係は対照的だったゴーギャンとシーレですが、画風の面では重要な共通点があります。

hiroshige.jpggauguin4.jpg
(左:二代目歌川広重「諸国名所百景 信州木曽の雪」 右:ゴーギャン「牛のいる海景(深い淵の上で)」

sharaku.jpgschiele8.jpg
(左:東洲斎写楽「三代目大谷鬼次の江戸兵衛」 右:シーレ「指を広げている自画像」

それは、どちらも浮世絵の影響を強く受け、"輪郭線" を強調したという事。ゴーギャンは、平坦な色彩と太い線の隈取り(クロワゾニスム)で知られていますし、シーレは前述の神経質な描線で精神を表現するため、わざと下地デッサンが見えるように彩色したといいます。

gauguin3.jpgschiele7.jpg
(自画像に見る輪郭線 左:ゴーギャン「レ・ミゼラブルの自画像」 右:シーレ「ほおずきの実のある自画像」

と、すれば、サビに登場する Redeviens les contours(輪郭に戻りなさい) という一見謎のフレーズは、「色を付ける前の、デッサン線の状態に戻りなさい」という意味になるのではないでしょうか?そう考えると、エンディングの Ses colours se sont diluées (直訳:その色たちは薄れてゆく)にも呼応しますしね。

ミレーヌの書く歌詞は、しばしばサビのフレーズでわざと曖昧な表現を使い、意味に多様性を持たせる傾向があるのですけど、このフレーズの redeviens も、二人称単数の命令法「戻りなさい」と、一人称単数の直説法現在「私は戻る」の両方に解釈できます。

この部分もやはり、「私」と「あなた」の両方に言及していると考えた方がよいでしょう。「お互いに染め合った色(与え合った影響)を消して、2人の関係を白紙に戻しましょう」って感じでしょうか?

ところがこのフレーズ、さらにうがった見方をすれば、「色」の慣用句に引っかけて「私」と「あなた」に全然別のメッセージを送っているとも読めるんです。

「あなた」に対しては Perds tes couleurs (直訳:色を無くしなさい→ショックで蒼ざめなさい)、「私」に向かっては Je n'en vois plus toutes les couleurs (直訳:私は二度と、それに関して、あらゆる色を見る事はない→もう決して、ひどい目に遭わされる事はない)なんて言っている解釈もアリなんですよ(笑)。

解説の続きへ 解説のひとつ前へ 解説の最初へ

Je te rends ton amour / Mylène Farmer 解説(4)



訳詞 + 原文を新しいウィンドウで開く

1.「ゴーギャン」と「シーレ」について(その4)

 <1番Bメロ後半の歌詞原文と筆者訳>
 Tu voyais l'âme
 Mais j'ai vu ta main
 Choisir Gauguin
 あなたは 魂見てた
 けれども その手は今
 ゴーギャンを 選んでた

 <エンディング後半の歌詞原文と筆者訳>
 Et je reprends mon amour
 Redeviens les contours
 De mon seul maître : Egon Shiele…
 だから 私に愛を返そう
 輪郭に 戻りなさい
 わが唯一の巨匠 エゴン・シーレの線に…

さて、この歌詞にはもうひとつ仕掛けがありまして、実は、歌い手ミレーヌ・ファルメール自身の私生活を連想させるように書かれているのです。

ご存知ない方のために、この曲が発表された 1999 年までの彼女の略歴をごく簡単に紹介しておくと…。

ミレーヌの歌手デビューは、1984 年(当時 23 才)。きっかけは、同い年の新人ソングライター、ローラン・ブトナのオーディションでした。ローランは当時、自作曲「Maman a tort」を歌う女性歌手を探していたのです。


(左:ローラン・ブトナ 右:「Maman a tort」ジャケット)

このデビュー曲は 10 万枚の小ヒットとなり、ミレーヌとローランは以後、二人三脚で成功への階段を上ってゆく事となります。多才なローランはプロデューサー、兼、作曲家、兼、ビデオクリップ監督、兼、ステージ監修を務め、ミレーヌは作詞と、振付と、もちろんパフォーマンスを担当しました。

こうしてこのコンビは、1985年から1992年にかけて次々にヒット曲を量産します。


(1st アルバム「Cendre de lune」。1985 年リリース。売上 50 万枚)


(2nd アルバム「Ainsi soit je...」。1988 年リリース。売上 150 万枚)


(3rd アルバム「L'autre」。1991 年リリース。売上 180 万枚)

なお、当時の彼らは「コンビ」だけでなく、「カップル」でもあったようです。



ところが 1993 年に入ると、2人の蜜月関係に翳りが見え始めます。原因は、前年の末にクランクインした、ローラン・ブトナ監督/ミレーヌ・ファルメール主演の映画「ジョルジーノ Giorgino」でした。


(Giorgino ポスター)

あまりにハードな撮影のため、監督と主演女優の間で口論が絶えなかったこの映画は、1994年に公開されるとまさかの興行的失敗!ローランは映像作家としての自信を失います。

結果、ローランはミレーヌのビデオクリップ監督を降板し、ミレーヌは単身渡米して生活の拠点をロサンゼルスに移す事となりました。

こうしてコンビ存続の危機が噂された2人ですが、音楽活動での共同作業は続いていて、1995 年には4枚目のスタジオアルバムを発表し、ファンを安心させています。


(4th アルバム「Anamorphosée」。1995 年リリース。売上 130 万枚)

しかしながら 1997 年、再びコンビの危機が囁かれます。何と、これまでミレーヌの専属プロデューサーだったローラン・ブトナが、別の女性歌手をプロデュースしたのです。

彼はキューバのシンガーソングライター、カルロス・プエブラが1965年にキューバ革命の英雄チェ・ゲバラに捧げた歌「アスタ・シンプレ Hasta simpre」のリメイクを企画し、この歌を原語のスペイン語で歌える女性歌手を探しました。

そうして白羽の矢が立ったのが、スペインとフランスのハーフ女優ナタリー・カルドンです。


(ナタリー・カルドン「Hasta simpre」)

ローランはナタリーのため、久々に映像作家に復帰し、ビデオクリップの監督を務めました。



さらに、彼女のために、音楽出版社を設立したり、自分が所有するアパルトマン(彼は副業で不動産会社を経営していました)を貸したりしています。

こうしてナタリーの「アスタ・シンプレ」は大ヒットし、ローランは引き続き彼女の 1st アルバム「Nathalie Cardone ナタリー・カルドン」もプロデュースする事となりました。彼はこのアルバムに4曲、楽曲を提供しています。


(ナタリー・カルドン「Nathalie Cardone」1999年リリース)

…で、ナタリーのアルバムと同じ 1999 年にリリースされたのが、この Je te rends ton amour が収録されたミレーヌのアルバム「Innamoramento」なのです。


(5th アルバム「Innamoramento」。1999 年リリース。売上 110 万枚)

「シーレ」と「ゴーギャン」が、誰と誰とを連想させるように書かれているのかは、もうお分かりですよね?

ミレーヌの歌は 100% 曲先で書かれているらしいのですけど、もしこの歌の歌詞の内容が、当時の彼女の実際の心情を反映しているとしたら…。

この作詞家は結構イイ性格をしているなぁ…と、訳しながら思ってしまいました(笑)。

なお、後で知った話ですが、この曲は元々、ローランがナタリー・カルドンのために書いて没になった物だそうです。ウーン、作曲家も結構イイ性格をしているかも…。(^_^;

参考資料:
ミレーヌ・ファンサイト「Âme stram gram」のローラン・ブトナ紹介ページ
ファンサイト「Autopsie de Laurent Boutonnat(ローラン・ブトナ解剖)」の「Laurent qui?(ローランって誰?)」

解説の続きへ 解説のひとつ前へ 解説の最初へ

Je te rends ton amour / Mylène Farmer 解説(5)



訳詞 + 原文を新しいウィンドウで開く

2.「エコルシェ」と「立っている裸婦」について

 <2番Aメロ前半の歌詞原文と筆者訳>
 M'extraire du cadre
 La vie étriquée
 D'une écorchée
 額縁を 抜け出そう
 窮屈な 人生の
 エコルシェには 疲れた

 <1番サビ後半の歌詞原文と筆者訳>
 Je te rends ton amour
 Au moins pour toujours
 Redeviens les contours
 "La femme nue debout"
 あなたに愛を返そう
 少なくとも 永久に
 輪郭に 戻りなさい
「立っている裸婦」のままで

 <2番Bメロ後半の歌詞原文と筆者訳>
 Je serais "l'Unique"
 Pour des milliers d'yeux
 un nu de maître
 ならば「孤高」となろう
 幾千の眼に留まる
 裸体画の傑作に

これまで見てきたように、この歌詞には「絵画」の縁語が多用されています。「額縁」、「画布」、「裸体画」もそうですが、écorchée(エコルシェ)もそのひとつ。

これは、絵画や彫刻において、骨格や筋肉の付き方がわかるよう、皮を剥いだ状態で表現されている(ここでは女性の)人体解剖図の事なのだそうです。


(レオナルド・ダ・ヴィンチによるエコルシェ)

ただし、歌詞ではもうひとつの意味、「(皮を剥がれたように)神経をピリピリさせている女」との掛詞になっていますので、ご注意ください。ちなみに本解説の冒頭で紹介した「ル・フィガロ・マガジン」のインタビューで、私が「神経を尖らせた女性」と訳した部分も、原文は écorchée でした。

また、1番のサビの最後に登場する la femme nue debout(直訳「立っている裸の女」)も「絵画」の縁語で、デッサンなどのタイトルによく使われる言葉。日本語では「裸婦立像」とか「立っている裸婦」と言います。

ちなみにミレーヌのファン・マガジン「MFマガジン」の12号は、la femme nue debout のクレジットを入れて、シーレの「黒い髪の少女の裸像」(この絵のフランス語タイトルは、「黒い髪の立っている裸婦」la femme nue debout, à la chevelure noire のようです)を掲載しています。


(シーレ「黒い髪の少女の裸像」)

しかしながら、歌詞の中で「ならば『孤高』となろう/幾千の眼に留まる/裸体画の傑作に」と決意しているのは、あくまでもミレーヌファルメール本人を連想させる「私」なのですから、わざわざ彼女とは似ても似つかぬ黒髪の少女の絵を想定するのは、いかがなもんでしょう…?

と、いう事で、ここでシーレ作の赤い髪の「裸婦立像」を幾つか載せておきましょう。


(左:個人蔵 中:ミュンヘン ノイマイスター・オークションハウス蔵 右:ウィーン レオポルト美術館蔵)

とはいえ、もしかすると、ここは特定の作品を想定する必要はないのかも知れませんね。そもそも「裸婦立像」は、人体デッサンの基本中の基本ですから。

そこで今回は、「初期の習作デッサンだったのに、『あなた』と過ごすうち、いつのまにか『色』が着けられてしまった『私』」という解釈で訳してみました。

とは言え、この歌は一見、男女の別れをテーマにしつつ、「これまで一緒にやって来たアーチスト同士の訣別」を歌っているとも読めるわけで、しかも la femme nue debout は、訣別の決定的な原因、すなわち、「あなた」の新しいミューズと解釈できなくもありません(その場合、「輪郭に戻りなさい」は「嫉妬の対象でなくなるがいい」くらいの意味でしょうか?)。

だからMFマガジンの説も、なかなかに捨て難いものがあります。ナタリー・カルドンは、「黒い髪の少女(ちょっとトウが立ってますが…)」でしたからね(笑)。

Ecorche.jpg
(ナタリー・カルドン「アスタ・シンプレ」)

解説の続きへ 解説のひとつ前へ 解説の最初に戻る

Je te rends ton amour / Mylène Farmer 解説(6)



訳詞 + 原文を新しいウィンドウで開く

3.「眼」について


(ジョルジュ・バタイユ)

さて、海外のミレーヌ・ファン・サイトやミレーヌ関連本の多くは、Je te rends ton amour の元ネタとしてジョルジュ・バタイユ(1897-1962)の処女小説「眼球譚」 L'histoire de l'oeil (1928) を挙げています。

ところが奇妙な事に、どの資料を見ても、歌詞のどこに引用箇所があるのかは載っていないのです。これはどういう事なのでしょうか?

その後、「眼球譚」を読んでみてわかったのですが、どうやらこの小説は歌詞ではなく、ビデオクリップの元ネタになっているようです。

元ネタと思われるのは、「眼球譚」のクライマックス・シーン。ビデオクリップと小説は、同じような場所(カトリック教会の告解室)で、似たような事件(レイプ&殺人)が起こるのですが…。

面白い事に、ビデオクリップの設定は「眼球譚」と正反対なのです。そして、そのためにかえって、この小説を元ネタした事実が強調される結果となっているのですよ。以下、主な違いを挙げてみましょう。

(1)被害者と加害者の立場
ご存知のように、ビデオクリップでは告解に訪れたミレーヌ扮するヒロインが、告解を聞かされて劣情を催した(と思われる)司祭からレイプされる内容となっています。

ところが元ネタの小説では、これが正反対。加害者は、告解に来た(と見せかけた)ヒロインで、被害者は、あけすけな告解を聞かされて困惑する司祭の方なのです。

(2)被害者が「眼」を失うタイミング
ビデオクリップの被害者(ミレーヌ)は、盲目の設定でした。彼女はあらかじめ、「眼(=視力)」を失った存在なのですね。

しかし小説では、被害者の司祭は、殺害された後に「眼(=眼球)」を抉り取られるのです。で、ヒロインはこの眼玉を、ある事に活用するわけですが…。

ここから先は、言わぬが花というものでしょう。もし、この小説を手にする機会がありましたら、どうぞご自身でお確かめください。

解説の最初へ 解説のひとつ前へ